そして最後のページには
お久しぶりです。M2の秋山です。
それからは、先輩達の1年間を、自分のミスで台無しにしてはいけない!という思いで練習に取り組むようになりました。
ありがたいことに、一年生の本来の仕事であるカウル作業も、色々免除して貰って、これ以上は無いというくらい、走行練習の機会を作ってもらいました。
同じくドライバー志望だったオオミヤには、面倒な仕事を押し付けてしまったなぁ、と思います。
そして迎えた大会ですが、想像以上の成績を残すことが出来ました。
09の先輩達が、本当に優れたマシンを作り上げた結果だと思います。
これまでに6台のYNFPの車両に乗りましたが、自分の代の11車両とともに、もう一度乗りたい車両のひとつですね。
■ 10シーズン
鈴木や後藤さんの日記にもありましたが、ここからが地獄の始まりでした。
少数精鋭(笑)ですからね。ひとりで色々な仕事を受け持つことになったわけです。
おかげで、随分と練習に行く機会が減った気がします。
出来た車両も、最初は本当に酷かった。
その酷さは、後藤さんの日記にある通りです。
そういえば、モノサスが付いていた時期もありましたね。
せっかく先輩が設計してくれたのに、自分の力不足で実現出来なかったもののひとつです。
さて、10シーズンからは、私は周回走行を担当させてもらえるようになりました。
コンビを組んだのが、前年度エースの中村さんだったので、何とか追いつこうとがむしゃらに走っていた記憶があります。
豪雨のエコパ走行会で水たまりに突撃したり、真夏の羽生で熱中症になりながら走ったり、パイロンのないもてぎで、とんでもない速度でスピンアウトしたり...
今思い返すと、アホなことしてたなぁ...と思います。 それでクルマを壊したらどうするつもりだったんだ、と。
それでも、この経験があったからこそ、雨のオートクロスで1位を取れたんじゃないかと、今では思います。
練習の時の方が、遥かに過酷な条件で走っていた訳ですから。
■ 11シーズン
地獄はまだまだ続きます。
この年もメインの代は少なく、しかもお金が無いと来ました。
自分はTDもやっていた訳ですが、いかにお金を使わずにマシンを作り、走らせるかに、大変悩まされた気がします。
そんなお金がない時だからこそ、グランツーリスモに活路を見出したのです!
初期投資数千円で練習し放題! このゲームがあったからこそ、当時のドライバー班は頑張れていたんじゃないかと勝手に思ってます。
まぁ、悪いことの方が多かったんですけど...
そんなこんなで完成した11マシンですが、シェイクダウンの時から凄く良い感じでした。
これなら動的種目全部獲れるんじゃないかと思うほどに。
しかし上手くはいかないもので、1位は獲れませんでした。
さらにショックだったのは、オーストラリアのスインバーン大学に手も足も出なかったことです。
やっぱり海外勢は凄い!と間近で体感した出来事でした。
■ 12シーズン~
なんだかんだで、自分の代が終わった後も、マシンには乗せてもらえることになりました。
12、13と田村と組んで走ることになる訳ですが、最初はもう大変でした。
クレイジーな田村のログを参考に走ってみても、コースからはみ出るわ、スピンするわで、散々でした。
これをきっかけに、只がむしゃらに走るのではなく、自分自身で色々考えながら運転をするようになったと思います。
それだけに、12でのエンデュランスリタイヤは、本当に残念でした。
どんどん調子が悪くなっていき、やがて止まってしまう。あの絶望感は人生で1、2を争うものだったかもしれません。
13では、ロングホイールベース・ワイドトレッドという車両に乗せてもらいました。
審査員や解説者からのウケは大変良かったですが、乗ってる側としては。。。
でも、クルマの動かし方の勉強には、とてもよかったと思います。
ということで、ドライバーとしての数年間を振り返ってみました。
本当に、貴重な経験をさせてもらったと感じています。
最後に、後輩たちに伝えたいのは、追いコンの場でも言いましたが、
「自分たちの作ったマシンに乗ってみる」ことです。
大変な苦労をして作り上げたマシンを、実際に動かすことは、中々日々の苦労が報われることの少ないこの活動において、数少ない達成感を得られる場面だと思います。
積極的に達成感が得られる機会を作っていくことが、この活動を楽しく続けるためには良いんじゃないかなと。
もちろん、設計の面でもプラスになることも見つかるはずです。
以上で、私からの最後の日記は終わりにしたいと思います。
あ、機会があったら是非またマシンに乗せて下さい!よろしく!