おもひでぽろぽろ

ご無沙汰しています、15リーダーだった永渕です。あっという間に卒業になってしまいました。

(できるかまだわからないけどね!)

追いコンではプレゼントありがとうございました、そして0次会から2次会まで付き合ってくれたみんなありがとう!今手元に写真がたくさん詰まったプレゼントのUSBメモリと昔の手帳があるので、最後の日記で当時を回顧しておこうと思います。1日遅れになってしまいすみませんでした。

【13】

私は5月にちょっと遅れて入ったんですが、とりあえずNRとプレゼンの手伝いになり、先輩方の指導を受けました。特に村井さんには文書の書き方や人に見せる原稿やスライドの作成について指導いただき、今の自分の基盤を作ってもらったと思っています。

チームは夏休みにクーデターが起こって首脳メンバーが入れ替わったり、「もてぎキャンセルは最終決定ですか」のメーリスで阿鼻叫喚となったり大変だったのを覚えています。ちなみに8月が自分の誕生日なのですが、この日はカウルを削って迎えたようです。確か佐藤さんが鬼の形相でパテ盛りしていました。結局カウルは大会当日の朝に完成したんでしたっけ。中々大変でした。

 大会では寝坊した時に曽根さんと江藤さんの枕アタックで起こしてもらったことと、オートクロスで田村さんがケツ振ってエンジョイしてた記憶しかありません。

え?打ち上げ?キオクニゴザイマセン。

みんな本当にごめん!

【14】

 運営班リーダーの肩書はあったものの事実上サブリーダーの直属下でした。スーパーフォーミュラやキッズエンジニアなどのイベントで人前に出ることが増えたのがこの時期かな。記者会見とかも出ましたが、喋る練習などろくにしたこともなかったので相当苦労しました。Yahooとかのネットニュースにアップされた私の写真は顔が引きつっててドン引きしました。以降のプレゼン審査も全て発表は他の人に任せていたのですがこれは良かったのかどうか...

 チームの雰囲気は前年より良かったけど、自分の仕事自体はあんまりうまくいかなかった感じでした。その最たる例がこのチームのホームページです。わけあってサーバー移転をする必要があったのですが、分からないことだらけで宮澤さんに多大な迷惑をかけてしまいました。結局移転こそすれど見られていない部分が結構残っているので何とかしてあげたいのですが、、、

全然大したことじゃないんですが記憶に残っているのは、夏休み中にカウルを作ってそのまま大学で朝を迎えたとき、「VBOXのメモリーカードを忘れたから富士に持ってきてくれ」と言われストレスフルで御殿場まで電車で行ったこともありました。イライラしていたのでグリーン車で行きました。反省はしていませんが猛烈に後悔しています。それでいて御殿場滞在20分は笑っちゃった。富士といえば、須走の旅館で酔っ払った笠原がドンパチ騒いで星野がキレていたのも印象的ですね。

 あとは14始まってからFacebookの更新を再開しました。亀井さんの写真のおかげで良い広報媒体になったと思います。みんな、広報は大事だぞ!

ちなみに毎年のことですが、大会前から翌年のチーム作りはスタートしていました。

リーダーを誰がやるか話し合ったときに「笠原か永渕」となったのですが、すぐには決まりませんでした。当時寝坊癖が酷かった笠原には「1週間遅刻しなかったらリーダー就任を考える」という話でしたが

『翌日に寝坊』してくれました。リーダー決めは一晩で解決!

【15】

 そうしてリーダーになったわけですが、リーダー業には引継ぎなんてものはなく、半分焼け野原みたいなところからスタートでした。

(サブリーダーいなくなっちゃったしね!)

 ましてや文系のチームリーダーなんて前代未聞でどうしたらいいか分からなかったので足繁く工場に通って松澤さんにあれこれ相談させてもらいました。昼休みに相談行って気づいたら午後...ってこともありました。一番身近で面倒見てくれた中で1年間楽しく過ごすことができたのも松澤さんのおかげだと思います。ありがとうございました。

15は特に先生や先輩方のお力添えがあって大変助かりました。佐藤先生には限られた予算で上手く運用していくこと、そして今の活動場所を確保していただくために尽力していただき、チームが存続できたと思っています。当時「お金がない」状況でセンターを手放し野外テントでの活動も覚悟していたのですが、今まで通りの活動ができているのも佐藤先生のサポートあってだと思います。本当に感謝しています。

また、伊藤先生にはFAを何度もお願いして日程を調整していただき、沢山の走行練習ができました。大分無理をお願いしたこともあった中、快く引き受けていただき感謝しています。

富井先生にはネットワークについてサポートいただき、現在のクラウドを構築することができました。村富先生には共同研究推進センターでの活動をバックアップしていただいたほか、様々な広報活動に誘っていただきチームのPRができました。そしてチーム設立時より多大なるご支援をいただいた和田先生が退職されたことをきっかけに、初期OBの高橋さん、盛合さん、横村さん、菊地さんご夫妻、篤さん、佐藤さん、山田さんたちとの連携を進めるようになりました。知識・経験の豊富な先輩方の多岐にわたるアドバイスは自分たちの視野が如何に狭いかということを認識しました。こうした皆さんのサポートがあって今があると思います。本当にありがとうございました。
リーダーといっても設計・製作は基本的にはなかったので広報・渉外活動に注力しました。

企画書や報告書は今までは社内資料のような質素なデザインだったのですが、「外に見せるものだから・・・」とデザインを一新しました。印刷をしていただいているスポンサーの東邦通信システムズ様のご厚意で中もホチキス止めの冊子にすることができました。この場を借りて御礼申し上げます。広報といえば、前年に引き続き記者会見も出ていたのですが、ネットの記事を見たら大会実行委員長の守護霊みたいに写っていました。あれは傑作。
あとは風通しを良くするためにセンターの模様替えをしたり、新しく設けたホワイトボードで情報の見える化を図りました。

結果から言うと後者は失敗。評価すべき点と改善すべき点を日ごとに書いていくんですけど、

ソフトボールを拾った(三枝)とか、おなかを壊してしまった(太郎)など関係ないことで埋め尽くされたストレスの掃きだめとなったからです。管理って大事な~

 実は3年生になるまで免許持ってなかったんですが、遠征ドライバーの貝沼がいなくなってしまったので慌てて教習所に通って免許取得しました。これにより我が家のアウトバックがフル活用されることとなりこの辺りから遠征によく行くようになります。遠征はサイレンサー吹き飛んだり、サージタンク破壊したり、行水したりいろいろあったけど、散々これまで書いてきたので割愛!遠征といえば、15では工学院大学と仲良くさせてもらって、何度か走行会をさせてもらいました。14でも東海大学とやっていましたが、近隣の大学と切磋琢磨できるのは刺激になってよかったですよね。他校とも仲良くしていきましょう!

(工学院リーダー中島君と)

夏休みはあっという間に過ぎ去りました。走行会ではコスト落ちの一方を聞きつけたメディアと自技会による取材責めに頭を抱えながら、失踪したコストおじさんとの電話面接をしたり、済んだと思ったら「プレゼンが終わらねえ!」となり羽生まで来ていただいたOBの皆さんに相談させてもらい何とか形にしていきました。

結局プレゼンの余裕のない日程のおかげで、4年間もてぎには行きそびれましたね。3年生の時はホンダ様に取材をしていただき、カッコいい記事が上がっていたので尚更うらやましかったです。そんなこんなで下旬になると直輝が胃潰瘍でぶっ倒れたと思ったら1日でゾンビの如く蘇生したなんてこともありましたが、大会には無事全員が揃った状態で迎えることができました。

 大会はコストのアレもあったり頼みのオートクロスも雨で流れたりして総合順位こそ伸びませんでしたが、デザインファイナルに進めて一同驚いていたのをよく覚えています。プレゼンは今見れば突っ込みどころ満載で6位止まりでしたが、まぁあれはあれで一生懸命やったからよかったのでしょう。

世界トップクラスの強豪TU Grazもファイナルに進出してきたのですが、YNFPのピットにやってきて「デザインファイナルはどんな形式でやるのか?」と尋ねられました。英語が話せるわけでもないのにリーダーだからという理由で説明役を任された"It is first opportunity for us."から始まる拙い英語とボディーランゲージで凌ぎ?泣きそうな思いをしました。やっぱコミュ力って大事ね。英語は勉強しような!

まぁ何はともあれエンデュランスも完走し、やりきったつもりでリーダーとしての大会を終えることができました。

【16???】

これで晴れて老害...と思いきや設計期が終わったころに一つの誤算に気づきました。15で次代を見据えて首脳などに置いたメンバーがことごとくチームを去っていたのです。

まぁ圧かけまくった渡部とか松島には悪いことしたなぁと思いつつ、2年生のはずなのに完全に老害と化した山本はなんだろう・・・とか思いつつ、ね。

 結局プレゼンやらなんやらを面倒見るためにしばしば顔を出し、遠征ではハンバーグを食べて夜は松澤さんと飲むためだけにエコパに行ったこともあったかな、そして大会には全日程帯同してしまいました。

大会では前年あちこちで講演やらなんやらやったおかげで私は他大学のお悩み相談コーナーみたいになって慌ただしく過ごしてたらプレゼンも正直プレッシャー半端なかったんですが、担当した質疑応答の部分はきっちり満点取って昨年より順位を上げれたので一安心?でも表彰台は乗りたかったかなぁ...ちなみに、プレゼン前日、中田はベッドの上で作業をしていて自分が洋室の床で横になっていたのは本当に謎です。机使えばよかったよね中田!!!

16大会も色々ありましたが、気が付けば2位になってくれました。何はともあれ本当に良かったです。みんな頑張ったね。夜の打ち上げは偶然居合わせた某実行委員長やら動的リーダーやらを巻き込んで盛大に行われチーム外の人も巻き込んで大変楽しい夜でした。

もちろん無事帰りましたよ、ええ。

 あとは16の新入生は少なかったですが、うち1人の椎橋は昔自分が作ったYNFPのパンフレットを読んでいてくれたらしく、自分の仕事が今につながっていることを知ってちょっぴりうれしかったです。そんなこんなで4年生の大会も終わり、17になったにも関わらずまだ引継ぎが完全に終わっていないという体たらくを晒している自分の無能ぶりを嘆きつつ今日に至っております。

はい、回顧おしまい。

振り返ってみるとここには書ききれない程の沢山の方のサポートがあって、スポンサー様にもご迷惑をおかけしながら社会人として大事なことをたくさん学ぶことができました。あらためて感謝いたします。そしてなんだかんだここまで楽しくやってこれたのも同期(+α)がいたからだと思います。

散々飲みに行っていくら飛ばしたんだろうな~そういえば笠原は三井宅でのボジョパ大変だったなぁ・・・

諸般の事情につき一人だけ卒業しますが、これからも仲良くしていきたいです。後輩たちも仲良くやってください。

最後に

市村先生も和田先生も、これまでの先輩方もおっしゃっていたことですが、安全と基本的なことについては大事にしてほしいです。「凡事徹底」という言葉がありますが、当たり前のことを当たり前にする、そうすれば自ずと結果が出てくると思います。自分が担当していた分野の観点からすると、相手の気持ちを慮ることが大事なのかなと思います。学生フォーミュラでは作り上げるのは車両だけではありません。文書やファイルは読み手や受け取り手のことを作り上げることでよりよいもの、魅力的なものができてくると思います。ちょっと小言みたいになってしまいましたが、外向けのマネジメントはもっと頑張れるでしょう!

ただ速いマシンを作り上げるところだけがないところ学生フォーミュラの醍醐味だと思うので、その辺も含めて充実した活動ができれば、日本一のチームへ一歩ずつ近づいていくと思います。余談ですが、資金がまだそこそこ潤沢にあったころ、YNFPは海外大会への参戦を真剣に考えていました。日本一になれば、世界へ向けた新たなチャレンジが始まるはずです。大げさかもしれないけど、それくらいの可能性をこのチームは秘めていると思います。これからも頑張ってください。長々と失礼しました。

たぶんまた来週はセンターにいるでしょう。あれ、引退ってなんだっけ??????

明日の日記は瀧本です。