YNFP生活を振り返って
お久しぶりです.2,3年ぶりに日記に登場している気がするM2の中島です.
毎日日記を読んでいても誰だこいつという人が一定数いそうな気がします.
また,卒業生の日記は私が最後ですが,たぶん入部年度が一番古いからだと思います.
とうとう「横国の」と名乗れる日も最後になってしまいました.
自分はとある事情(笑)で7年間も横国にお世話になって同期は先に卒業してしまったのですが,
小学生が入学して卒業する以上の年数だと考えると長いなぁなんて思います.
今回は,手元に写真がないので文字だけになってしまいますが7年間を軽く振り返ってみたいと思います.
まず,私は2011年入学で合格発表の数日後に東日本大震災が発生したので入学式と名前の付く式典はありませんでした.
まあ,入学式という名前ではないけど似たようなものはありましたが.
入学式ではないからといって私の周り数人だけ私服で行ったら大多数はスーツでした.
今となっては笑い話ですが当日はかなり恥ずかしかったです.
YNFPに入った理由を考えてみると,そもそも入学したときにはYNFPというものの存在を知りませんでした.
初めてYNFPを知ったのは友達に誘われて行った説明会でした.
大学生なので何かしらサークルにでも入ろうと思っていたのでそのまま何となく入部しました.
その後,1年生の時は夏前くらいから超つらい徹夜のカウル製作をやっていました.
今思うとよく辞めなかったなと思います.
また,8月頭の富士走行会で初めてちゃんとしたコースを走るマシンを見ました.
このとき「すげー」とか「かっこいい」思ったのを覚えています.
当時はあまり意識していなかったと思うけど,ここまで続いた理由はこういうところにあるのかな.
1年生の秋からは設計・製作に携わりました.この時は初めてでPDCAサイクルとかを考える余裕も全くなく,
先輩の真似をしていたように思います.実際にスポンサー対応を始めて,社会人との付き合い方を学び始めたのもこのころでした.
また,製作期にはなぜか私の旋盤作業姿が新聞に載ったりしました.
このころから工作機械などを使ってものづくりをするのがとても楽しく思うようになりました.
研究室に入ってからもそのくらい自分で作ればいいじゃんと思ってしまうくらいだったので,
このあたりからがYNFPを楽しめるようになっていった時期かなと思います.
春先には自分の担当部品プロペラシャフトが壊れて走行不能になりました.
なので,1つ下の学年の人は新歓でマシンが走っている姿を見ていないと思います.申し訳ないです.
この時は先輩にも手伝ってもらって1か月くらいで走行できる状態に復帰できました.
しっかりしないと部品が壊れてこんな大ごとになるんだというのを実感したのと同時に,
どういう計画でやれば早く走行できる状態に復帰できるのか考えざるをえなくなったのも,
今となっては貴重な経験だったなと思います.
2年秋からは部内の最上級生としてチームをまとめる立場になりました.
マシンのコンセプトなどについて,多くの議論を交わしたのはいい思い出です.
狙った車が作れたかというと微妙なところですが,大会では完走したのでそれなりにはできたかな.
この年は,自分の担当部品だった駆動系以外の部品も以前より見るようになりました.
シャシー・パワトレ関係なくいろんな部品に対して興味を持つようになって,
マシンに対する理解がそれまでよりも深まったと思っています.
ただし,部品の製作などいろいろな日程がぐだぐだできちんと計画を立てて,
それを確実に実行することの大変さと大切さを思い知らされた年でもありました.
部活を引退した後も,マシンの展示を手伝ったりエンジンをばらすのを手伝ったりと
貴重な経験をたくさんさせてもらいました.
私の研究室はシミュレーションがメインだったので,YNFPで手を動かすものづくり,
研究でシミュレーションという両方を経験できたのも貴重な大学生活だったなぁと思います.
明日から私は「社会人」として生活していくわけですが,この経験を活かして頑張りたいと思います.
後輩のみんなは,YNFPに限らずまだまだ貴重な経験がたくさんできるので
いろんなことに興味を持って大学生活を謳歌してほしいと思います.
まとまりがないですが,最後の日記をこんな感じで終わりたいと思います.